こんにちは AutoRocker KIYOです。
かつて船橋オートをホームグラウンドとして活躍していた片平巧選手を覚えていますか?
2015年5月19日、突然この世を去りました。
あれから5年が過ぎましたが、今でも皆さんの記憶にしっかりと残っていると思います。
カリスマ性があり、天才と呼ばれた片平選手の功績を振り返っていきましょう。
片平選手の命日が5月20日だと思っていましたが、
5月19日が正しかったことについては上記のツイートではじめて知りました。
この記事でも片平選手の命日を5月19日といたします。
6月14日という偶然
片平巧選手は1965年6月14日生まれの船橋オートレース場所属の19期生です。
伊勢崎オートレース場に所属する22期生の高橋貢選手も6月14日生まれです。
これは偶然なのでしょうか?
まさか、誕生日が同じこの2人がライバルとしてSG戦線でタイトル争いをするとは想像もつかなかったでしょう。
片平選手と高橋選手はSG以外にも、GⅠ、GⅡでもタイトル争いを繰り広げていきました。
数々のタイトル
片平選手は、グレードレースは実に45回も優勝しました。
SGスーパースター王座決定戦では4連覇という偉業があります。
また、最優秀選手賞を3回、優秀選手賞も6回受賞しています。
片平選手が残した功績は以下の通りです。
生涯成績
1着1137回
2着 765回
3着 571回
着外1235回
優勝 80回
SG優勝15回
全日本選抜 1996年、2001年
スーパースター王座決定戦 1995年、1996年、1997年、1998年、2001年
オートレースグランプリ 1998年、2000年
東西チャンピオンカップ 1997年
オールスターオートレース 1995年、1996年
日本選手権 1990年、1993年、1994年
GⅠ優勝16回
黒潮杯争奪戦(船橋) 1988年、1990年、1999年、2000年
オートレース発祥記念船橋オート祭(船橋) 1998年
ダイヤモンドレース(飯塚) 1994年、2001年
平成チャンピオンカップ(山陽) 1997年、2000年
開設記念グランプリレース(川口) 1999年
グランドチャンピオン決定戦(川口) 1994年
全国地区対抗戦(A級) 1991年、1994年、1996年、1997年、1999年
GⅡ優勝14回
日刊スポーツさざんか杯(船橋) 1987年、1995年
ウインターカップ(船橋) 1994年、1995年
オーバルチャンピオンカップ(飯塚) 2010年
オート名匠戦(川口) 2007年
日刊スポーツキューポラ杯(川口) 2000年
サンケイスポーツまがたま杯争奪戦(川口) 1992年
はやて賞争奪戦(伊勢崎) 1994年、1996年、1997年
春のスピード王決定戦(浜松) 1993年
中日スポーツ杯争奪戦サマーチャンピオン決定戦(浜松) 1998年
スポニチ杯争奪戦選抜地区対抗戦(山陽) 1994年
記録及び賞
年間最多優勝 1994年、1997年
年間最多勝利 1995年
1000勝達成 2009年4月11日
最優秀選手賞 1994年、1995年、1996年(島田信廣選手(船橋)と同時受賞)
優秀選手賞 1988年、1997年、1998年、1999年、2000年、2001年
特別賞 1993年、1994年、1997年、1998年、2001年
新人敢闘賞 1986年
日本プロスポーツ大賞・功労賞 1993年、1994年
日刊三賞 殊勲賞 1995年、1996年
敢闘賞 1988年、1989年
技能賞 1994年、2001年
特別賞 1993年
転機になったエンジン統一
片平選手はデビュー後、オートレースを極めるために「キブロワイト」と出会います。
レース場には師匠(板橋忍元選手)や整備グループがいるのに、外部の第一人者に師事するという当時としてはあり得ない行動に出ました。
その結果、オートレースに向き合う姿勢や整備力などが備わっていきました。
1993年10月、それまでの「トライアンフ」「フジ」などといったエンジンが「セア」に統一されました。
その直後のSG日本選手権で「セア」統一後、初のSG優勝を飾りました。
周囲は「セア」の特徴を掴もうと悪戦苦闘する中で、片平選手はいち早く対応できていました。
その後、片平選手を「天才」「カリスマ」「セアの申し子」と呼ばれるようになりました。
何よりも「キブロワイト」との出会いが、その後の片平選手の人生を大きく変えたと言っても過言ではありません。
誰もが魅了された華麗なる捌き
片平選手といえば、「スタートは8番手からでも周回を重ねるごとに1車づつ捌いて先頭でゴール」というレースをしていました。
その時のレースはほかの7車が止まって見えるくらいの華麗なる捌きでした。
特に、圧巻だったのが第11回SGスーパースター王座決定戦でした。
なんと、片平選手だけ10m後ろからのスタートではありませんか!
スタート後、すぐに前の7人に追いつくと1車ずつ捌いていき、6周目で先頭に立つと後続を大きく引き離してゴールしました。
これが今でいう「スーパーハンデ」でSG優勝してしまうのですから、どれほど凄かったかが伝わったかと思います。
船橋オートレース場を襲う危機、そして…
2014年8月、それは突然の発表でした。船橋オートレース場を廃止するというものです。
すぐに廃止撤回の署名運動が始まりますが、廃止への動きは加速するだけでした。
そんな矢先に片平選手に異変が起こります。
2015年5月10日、GⅠ黒潮杯の2日目を最後に欠場してしまいます。
その9日後の5月19日、「片平巧選手死去」の一報が入ってきたのです。
突然の訃報に誰もが驚いたことでしょう。
あの時は突然のことで、頭の中が真っ白になるくらいの衝撃でした。
あの7人抜きがもう見られないのかと思うと、悲しくなったと思います。
生前の片平選手の願いも虚しく、2016年3月、ついに船橋オートレース場は廃止されてしまいました。
それが悔しかったのは他の誰でもない片平選手です。
船橋を離れたくなかった、もっと走りたかったと思います。
片平選手のカリスマ的存在は永遠に不滅
このような片平選手の活躍に触発された少年少女たちは、いつしか「片平選手のようなオートレーサーになりたい!」と憧れを抱き、選手を目指したと思います。
目標にしていた片平選手の背中を追いかけ、追いつき、追い越しても、挑戦はどこまでも続きます。
弟子となった鈴木聡太選手(現在は伊勢崎所属)は、これから先も師匠を超えるべく、さらに飛躍することでしょう。
もちろん、そんな彼らを片平選手は遠い場所で見守っています。
あれから5年、「セアの申し子」と呼ばれた片平巧選手をこれから先も、永遠に忘れることはないだろう。
片平巧選手のご冥福をお祈りいたします。
以上、 AutoRocker KIYO でした。
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