こんにちは AutoRocker KIYOです。
今回は、飯塚オートのエースだった中村政信選手について書きます。
中村選手は1999年12月23日に、レース中の不慮の事故で殉職しました。
あれから20年、彼の功績を振り返って行きます。
19期生として
中村政信選手は、1985年に19期生として飯塚オートレース場の所属となり、
同年8月14日にデビューします。
そのデビュー戦を1着で飾り、オートレーサーとしての一歩を踏み出しました。
同期生は片平巧選手、岡部聡選手などのタイトルホルダーもいます。
初優勝は1987年3月3日の飯塚オート11レースでした。
ここから数々のタイトルを手中に収める快進撃が始まるのです。
数々のタイトル
中村政信選手はSGで2回、GⅠで6回、GⅡで6回の優勝があります。
これ以外にも数々の記録を持っています。
生涯成績
1着 541回
2着 314回
3着 272回
着外 761回
優勝 57回
SGレース
全日本選抜オートレース(山陽)1995年
オートレースグランプリ(船橋)1997年 (初代優勝者)
GⅠレース
ゴールデンレース(浜松)1993年、1996年、1997年
開設記念レース(飯塚)1995年、1997年
ダイヤモンドレース(飯塚)1998年
GⅡレース
春のスピード王決定戦(飯塚)1991年、1996年
秋のスピード王決定戦(飯塚)1994年、1996年、1997年、1998年
賞金記録
平成9年に自身初となる年間獲得賞金1億円突破(102,055,600円)。
この年、年間獲得賞金第2位を記録。
生涯獲得賞金額 677,898,444円
SG連続優勝戦出場記録 12回
(内訳)
1996年 日本選手権(山陽)
1997年 スーパースター(川口)
全日本選抜(船橋)
オールスター(飯塚)フライング
東西チャンピオンカップ(浜松)
日本選手権(伊勢崎)
オートレースグランプリ(船橋)優勝
1998年 全日本選抜(川口)
スーパースター(川口)
東西チャンピオンカップ(飯塚)
日本選手権(船橋)
オートレースグランプリ(川口)
*1998年オールスターは除く。(前回優勝戦フライングのため、出場権利なし。)
その他の記録
年間最多優勝 11回(1996年)
500勝達成 1998年12月8日 飯塚オート9レース
主な賞
優秀選手賞(6回) 1993年、1994年、1995年、1996年、1997年、1998年
特別賞 1999年
以上のようなタイトル、記録、賞を獲得するために、整備や練習走行といった努力を惜しまなかったそうです。
特に目を引くのは、SGレースに12回連続で優勝戦出場です。
その12回のうち1回優勝しているところです。
さらに、優秀選手賞に6年連続で選ばれています。
名言
中村選手はよくこんなことを言っていました。
「車にばかり頼らんで、人間が頑張らんと」
「メイチで頑張る」
この言葉は、決して諦めない走りを信条としていた中村選手を象徴するものです。
前者は、エンジンのおかげで勝つのではなく、持っている技術を駆使して勝つためによく語っていました。
競争車の性能に満足せず、自らを磨かなければならないことを表しています。
後者は、自分を信じて車券を買ってくれたファンのために、最後まで絶対に諦めない走りをしました。
その信念を象徴したエピソードは、第5回全日本選抜の優勝戦で、落車してしまいます。
しかし、自ら立ち上がり、再び走ろうとしたのです。
一度落車すると、身体は大丈夫でも競争車が落車の衝撃があるため再乗車はできないのですが、絶対に諦めないという闘志が伝わってきます。
メイチとは目一杯のことです。
あの瞬間、それから
1999年12月23日 飯塚オート11レース優勝戦
まさか、これが中村選手にとって過酷な運命となるとは、誰も想像できなかったでしょう。
中村選手は、前を走る選手に追突し落車してしまいます。それを避ける間もなく後続の選手が…
すぐに病院に搬送されましたが、17時59分に帰らぬ人となってしまいました。
この訃報を聞いた瞬間、誰もが「嘘だろ!」「信じられない!」と思った事でしょう。
年が明けて2000年、飯塚オートにてSG全日本選抜が行われましたが、そこには中村選手はいません。
優勝戦は雪が降る中で行なわれ、浦田信輔選手が優勝しました。
インタビューで「政信さんが勝たせてくれた」と述べていました。
その後、中村選手の競争車呼名「トーマス」を取り「GⅡトーマスメモリアルカップ」が行われるようになりました。
現在は、GⅡではなくなりましたが「トーマスメモリアル 魂の継承」として開催されています。
中村政信選手を見てオートレーサーを目指し、実現して活躍している選手はたくさんいます。
有吉辰也選手のようにSG優勝戦連続出場記録を更新するなど、中村選手の「最後まで絶対に諦めない」というスピリッツはその後登場する若手選手にも、しっかりと受け継がれています。
それは、間違いなくずっと続いていくでしょう。
20年経った今でも語り継がれているのは、中村政信選手が記録だけでなく記憶にも残る選手だったということです。
これから先も、ずっと忘れないでほしいです。
中村選手のご冥福をお祈りいたします。
今回の記事は、一部ウィキペディアなどから抜粋しています。
以上、 AutoRocker KIYO でした。
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